1月24日
通塾開始直後の壁
「ギフテッドの中学受験」と銘打って記録を残しているのは、長男のような子どもを育てている孤独な親に、少しでも何かの情報が残せればという思いからだ。
高すぎるIQは、学校への不適応など様々な困難をもたらす。目や耳などすべての感覚器官からの情報が過剰に取り込まれ、刺激の渦のなかで溺れるような感覚を覚える。学校での学びは簡単すぎ、同級生とは精神年齢が合わない。しかし、小学生は学校のカリキュラムから逃れることはできない。唯一できることは、学校の学びを拒否することだ。
環境を変えるための一つの選択肢が中学受験だが、癇癪やこだわりの強さに振り回される小学校生活を見ていると、疑問が生まれる。生活に困難をもたらす程のIQの高さは、受験にはどう働くのか?この問いの答えを見つけるのは容易ではない。なぜなら、高いIQは必ずしも受験勉強のような明確な「型」や「手順」にすんなり適応するものではないことが、通塾を始めるとすぐに分かるからだ。
この3年間、長男の勉強を見続ける中で、長男に欠けている部分をまざまざと実感させられてきた。また、「アンダーアチーバー」と呼ばれる、知的なポテンシャルが高い一方で、「結果」が伴わない子どもたちの課題についても考えさせられる日々だった。
理解を拒否する態度
長男に欠けていたものは、1回1回の授業の範囲を着実に仕上げる、という勉強スタイルだった。与えられた「弁当箱」を美味しく食べる能力と言ってもいい。その弁当箱は、1年間のカリキュラム50回で必要な「栄養」がパーフェクトに摂取できるよう、効率よく設計されている。無駄なく学ぶには、この弁当箱に素直に向き合い、与えられた範囲を与えられたスケジュールで消化することが最適解だ。
長男にとって、このスタイルの勉強は苦痛だった。知的好奇心は旺盛で、小難しい本でも内容をぐんぐん吸収するのに、「今回はこれを学べ」と差し出された範囲には、心がまったく動かない。次回の授業で課される小テストで100点を取るという目標にも興味が湧かず、結果として「できない自分」を突きつけられることになる。
それは「理解できない」のではなく、「理解しようとしない」態度が招いた結果に過ぎないのだが、本人はそれを「能力の限界」と捉え、自己評価を下げてしまう。繰り返される大癇癪と、親のイライラという悪循環。この悪循環は、小4から小5の夏頃まで、基礎的な知識を網羅的に学ぶべき期間に最も強まった。本来持つ能力の高さに気づける機会が、その時期にはほとんどなかったのだ。
見えてきた思考力の高さ
潮目が変わったのは、小5の秋だった。サピックスオープンなどで思考力が問われる出題が増え始めた頃だ。サピックスオープンの優れた点は、知識系のAタイプと、思考力系のBタイプが分けて採点され、それぞれの偏差値が出ること。すると、長男の優れた思考力が、初めて数値として可視化された。初めて見えた高い思考力は、「高いIQが受験に有利か?」という問いに対する一部のヒントを与えてくれた。
この頃、長男がよく口にしていた言葉がある。「みんなが知っていることを、僕は知らない。だけど、みんなが知らないことを、僕は知っている」。授業で当たり前に学ぶことをしばしば無視していた彼だが、その間も本を読み、訪れた場所から新しい知識を吸収していた。そして、それらの知識を授業内容と結びつけ、独自の知のネットワークを築き上げていた。
例えば、ある時読んだ1年間の季節の行事についての実用本からは、紫陽花の色が変わる仕組みを学び、私と旅行した箱根の火山博物館では、日本のプレートについて知った。それらを、長男は1年越しでしっかり覚えていた。彼は日常のあらゆる場面で学び、「そうなんだ!」と感動したことを記憶に刻む。そんな学びが無数に積み重なり、それを改めて知識として整理し、更新してくれるのが授業——そんな役割分担ができはじめた。
つなげて考える力が求められる場面では、彼は徐々にその能力を発揮し始めた。一方で、「皆が知っている知識」の弱さが浮き彫りになった。このギャップは、本格的な受験勉強が始まる6年を目前に、今後の学び方を見直す必要性を突きつけた。
基礎の重要性には向き合えず
学び方の見直しとは、平たく言えば、「そろそろ、デイリーチェックで満点を目指しなさい」という態度を私が強めたということだ。しかし、うまくいかなかった。長男は「授業で学ぶこと」に向き合えず、「理解しようとしない」姿勢を崩さなかった。私は「なぜできないの?」と問い詰めることが多くなり、やる気をさらに削いだ。小5の秋というタイミングでサピックスを一度辞めた背景には、こうした親子間の葛藤が影響していた。
あの時、1年後にどのような形で通塾しているのか、全く想像がつかなかった。見えるのは足元だけで、先は全て真っ暗に思えた。どこに道があるのか、どの方向へ進めば良いのか、まったく手がかりがなかったのだ。それは絶望というより、「正解が見つからない」もどかしさと不安の中で模索する日々だった。
独自のネットワーク型の学び方は、思考力が問われる場面では強みを発揮する一方で、基礎知識の不足による失点という課題も残る。「皆が知っている知識」は前提として必要であり、その土台があってこそ総合力は活きる。基礎の重要性——つまり、「皆が知っていること」を「僕も知っている」状態にすること。この意味を長男が理解し、学びに反映できるようになるまでには、さらに1年かかった。
束縛を嫌う知性
最初の問いに戻る。IQが高いのは受験に有利なのか?
私の答えは、「有利だが、一筋縄ではいかない」。高いIQは、束縛を嫌い、自由を求める。例えば、歴史の一分野に異常なほどの興味を示し、その周辺知識を徹底的に掘り下げる一方で、他の重要な分野はほとんど手つかずになる。親にできることは、重要分野の穴には一旦目をつぶりつつ、時折薄目で見て軌道修正を続けることだ。
「有利」とあえて言うのは、飛ぶ力自体はあるから。「一筋縄ではいかない」とするのは、その飛行の目的地をコントロールすることがほぼ不可能だから。ただし、飛行中に見える景色をコントロールすることなら、ある程度は可能だ。親が介入できるのは、この「景色」をどう整えるか、という部分に限られる。
マス目を1マスずつ丁寧に埋めていくような勉強は苦手でも、飛び続ける中で気がつけば箱いっぱいに軌跡を残すような学び方なら得意だ。無秩序に見える飛び回りの中でも、知識面が自然と網羅されていくと信じて、「ある程度は飛ぶに任せる」という親の忍耐力が必要になる。
漫画でも図鑑でも、全ては学びになると捉え、足りていない知識をさりげなく生活に散りばめること。我が家に増えた学習漫画や書籍には、学びと悟らせることなく知識を吸収させたいという、私の試行錯誤の跡が残っている。そしてもう一つは、テストでの失点を深追いせず、「次に生かす」という軽やかな姿勢を保つこと。この二つが、失敗を重ねた私が、最後にたどり着いた数少ない知恵だ。
最後に徹底的に穴を埋め始めるのは、12月からでも何とかなる。最後の最後の辻褄合わせ。これが、「ギフテッドの中学受験」における最大の正念場になる。
今はだいぶ落ち着いたけど、相当山あり谷ありの2年間だったよね。
何度も塾にも行けなくなったし、発達外来で薬ももらって、やっと調子が整ったよね。調子も成績も整ってきたのは、6年の秋だった。