警察署で出てきたのは50半ばくらいの女性の警察官でした。
(しかしなんだろう、先日の記事では性別を明示しないで「警察官」と書いていたのに、女性の警察官が出てきた途端に性別を書きたくなるのは、これもある種の先入観からくる差別ですね)
「ちょっと申し訳ないんだけど、もう一回話聞かせてもらえる?」
また同じ説明を繰り返します。夫婦喧嘩をしていて、家を出ようとして、それを制止しようとした夫との間でもみあいになり、夫が通報したと。子どもは見ていた。暴力はなし。よって被害届も出すつもりはないこと。その他聞かれたことに細々と。
夫は隣の部屋で。夫婦は顔を合わせることがないよう、配慮してくれているようでした。子どもたちは別室でiPadで遊んでいます。
部屋の広さは3畳ほど。いわゆる取調室というやつ? 白い壁にところどころ黒い汚れが。誰かが蹴とばした跡なのか。部屋の中央には古いグレーの事務机。昔の職員室にあったような、古くて手触りの冷たいスチール机です。机を挟み、婦警さんと向き合います。
「お仕事は何されてるんですか?」
「記者です」
あら意外、という顔をして婦警さんが顔を上げます。
「へぇ、ブンヤさんなの?」
「はい。でもまぁ、ブンヤという感じでもないですけど」
「社はどこ?」
「〇〇です」
「部は?」
思わず苦笑。「部、ですか? 今はサツ回りするような部署じゃないですよ」
「うん、でも教えてよ。いいじゃない」
本来は必要ない情報でしょう。でも興味津々の様子の婦警さん。根負けして伝えると「へぇ、そうなのね、じゃあ大変ね。お仕事も、子育ても」
サツ回り。夜討ち朝駆け。記者と聞いて警察官がイメージするのは、朝も夜もなくパンツスーツで駆けずり回る新人記者の地方巡業か。それとは程遠い場所にいました。在宅勤務で働ける記者。泥臭い仕事もなければ、特ダネもない。ただ淡々と、定型業務を回すだけの歯車。子育てとともに沈んだ、深海魚です。
ブンヤなんて久しぶりに聞いたな。もう死語だと思っていた。しかし、警察署の一室から署内を眺めていると、むしろ「死んだ」側にいるのは私で、ブンヤが特ダネを求めて駆け回るような世界はまだ依然としてそこにあるのだ、ということにも気づかされます。
「ブンヤさんなのね?」
婦警さんの意外そうな顔に一瞬だけ誇らしさを覚え、それが場違いな感情だと気が付く。みじめでした。そこにいるのは「記者」の私ではなく、子育てに疲れた夫婦喧嘩当事者。情報を取り、書くという立場ではなく、通報した理由を聞かれ、写真を撮られ、書類に残される側の人間でした。
「今回の件は、どのように処理されるんですか?」
婦警さんが聞くべきことはあらかた聞き終わったようでした。気になっていたことを尋ねます。
「今回の件は、通報があったということで記録に残して報告しなくちゃいけないの。暴力がなかったし、被害届も出さないので、いわゆるモラハラですね。ご主人には『もうしません』と一筆書いてもらいます」
被害届を出さなくても、反省文を書かせるなんて。警察はそんなことまでするのか。暴力沙汰を未然に防ぐため、ということなんでしょうけれど。これまで知らなかった、そして一生知る必要がなく生きていきたかった、社会における警察の一つの機能を垣間見ます。
2時間程度で放免。通報当日ということで、夫婦は隔離を指示されました。私は手当たり次第に荷物を詰め込んでぱんぱんになったリュックを抱え、そのまま予約したビジネスホテルへ。夫と子供は自宅へ。夫の通報から警察沙汰になったことで、かえって私のプチ家出にはお墨付きが与えられた状況でした。
警察署を出る瞬間、夫が見えました。こちらに気が付き、深々と頭を下げています。芝居がかった行動に鼻白み、思わず顔を背けました。警察署にいる夫も、パトカーで自宅へ帰っていく子供たちも見たくなかった。こんな事態を子供の記憶に刻んだ夫も、私自身も何もかも、闇に葬り去りたい。
誰かと話がしたかったけど、突然電話をして修羅場の相談ができるような友達は思い浮かびませんでした。親とも、姉とも、話したくありませんでした。
そうだ、離婚届をもらってからホテルに行こう。
湧き上がってくる感情に、何か方向性を与えなければ、押し流されてしまいそうで。目の前に離婚届があれば、そこに掴まって正気でいられそうな気がしたのでした。離婚届をもらって、離婚の方法を考えよう。ホテルにいる間は、離婚のための情報収集と、今後の取りうる手段の整理をしよう。
駅の近くには区民事務所がありました。長い長い一日でしたが、まだ16時。区民事務所は、開いています。
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