母も倒れた⑭ 「働けないなら死ねば解決」心に浮かんでゾッとした

白目トモ子(筆者)
マスコミの片隅で息も絶え絶えの記者。週末キャンピングカー住まい。子供との野遊び、中学受験、家計簿、時短収納を記録。自身も中受経験の経験組。

管理職の次は産業医。立て続けに面談を終え、復帰への方針が定まりました。しばらくは休めるとホッとしたものの、夏休長男の不穏再発にコロナ疑惑が勃発。それを受け私はまた体調を崩します。果たして元の生活に復帰できるのか……? 不安が再燃します。

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管理職面談の次は産業医面談

会話がいまいちかみ合わなかった管理職面談を経て、次は産業医面談です。目的は、上司との復職前面談に同席してもらって、産業医からの勧告という形で業務上の配慮を説明してもらうこと。そのための事前説明です。

これまでの経緯をざっくり話し、現在は比較的安定しているが、なお疲れを溜めると癇癪を起こしたり暴れたりと不穏になること、引き続き在宅勤務を中心とした勤務でのサポートが必要なことなどを説明します。

続いては私自身の体調について。太郎と離れていれば比較的が良いが、癇癪を起こしたり叫ばれたりするのはそれなりにしんどく、太郎が家にいる間の勤務には支障が出そうであることを話します。

復帰の道のりは、以下のようになりました。私は主治医に職場での要配慮事項について、診断書のような形式で一筆書いてもらう。その内容も踏まえて、産業医から管理職に今後の私の働き方について勧告をしてもらう。それは産業医、管理職、カウンセラーさん、私の4者が集う面談で行う。

主治医に何かを書いてもらうと言っても、主治医は職場の事情を子細に把握しているわけでもないので、結局は「残業をさせない」「時間外勤務をさせない」といった一般的な項目にとどまります。要するに「お医者様に止められている」という状況を作るということです。

カウンセラーさんは慣れたものでした。「トモ子さんから、管理職に連絡を入れておいてください。あとの時間調整はこちらでやりますから」

兄弟のコロナ疑惑で体調暗転

連日続いた面談を終えて、ようやく安心したのもつかの間。今度は兄弟にコロナ疑惑が降りかかります。「のどが痛い」から始まり咳に発熱。身体の違和感から長男は泣き叫び、朝も夜も手が付けられないほど不機嫌に。癇癪と兄弟喧嘩をなだめすかしながらの日々が、再来しました。

兄弟のコロナ検査は陰性でした。しかし咳が続く間はリモート授業となり、兄弟そろって学校も塾も休み、一日中家にいることに。しかし夫は仕事のペースは一切変えず、予定通りの出張と接待をきっちりこなしました。そして私は、兄弟げんか・リモート授業のお世話・長男の癇癪にさらされた一週間を経て、また体調を崩して寝込みました。

その頃、夫とは最低限の意思疎通しかありませんでした。私が長期の休みに入っているにもかかわらず、「いつまで休むの?」も「体調はどう?」も聞いてくることはありませんでした。

その一方、夫は彼ができる最大限の家事をこなしていました。私が寝込んでいても一切嫌な顔はせず、もはや家の主力として切り盛りしてくれました。体調について何も聞いてこなかったのは、彼なりの配慮でした。

私は夫に感謝しながらも、同時に不安を感じていました。子どもが病気になろうと学校を休もうと、さして気にせずに仕事に行ける夫と、子どもの病気により大打撃を受ける私。この構造を残したままで、私は勤務再開できるのだろうか。家に私がいるから日中のケアはまずは私が引き受ける、というのはこれまでの分業と全く同じなのです。

そもそも私が休んでいるのは在宅勤務に上乗せさせる形で、太郎の精神不調のケアが担わされてきたからです。そんなダブルワークはそもそも不可能なのに、在宅勤務ならば子供の看病と仕事の両立は可能というコロナ以降の「常識」により、私も夫も会社も疑問を差しはさまなかった。

その無理を引き受けた結果崩した体調は、有休消化の範囲内できっちり復活して、またあの役割分担に戻るのか? 問題の根本である「在宅勤務をしながら太郎の相手をする」という部分への対策を立てることなく、あの綱渡りのような在宅勤務生活に?

私は絶対に潰れるわけにはいかない

我が家の収入の大きな柱は私です。

一家の大黒柱として稼いで、大きな買い物もすべて意思決定して、すべてのローンを引き受け、万が一の備えを張り巡らし、多少のことがあっても家族が路頭に迷うことがないよう人生設計をしてきたのは、私です。だから、私が潰れるわけにはいかないのです。

だけど、抗不安薬を飲みながら太郎から飛んでくるクッションやら消しゴム、金切り声と罵詈雑言に耐えていると、ふと「もう駄目かもしれない」と思う瞬間がある。もちろんそんなことで「駄目」にならないように、仕事も休んでいるしお医者さんにもかかっている。本当に「駄目」になりそうだったら、薬を飲んで「ちょっとごめん」と言って、外に逃げ出せばいい。大丈夫。私のレジリエンスは、もう少し強い。

でも、ふとした瞬間に「もう駄目かもしれない」との思いが頭をよぎる。復帰しても、太郎はまた不穏さが復活するかもしれないし、私はまた同じように、仕事を休むかもしれない。そうなったら私は、もう、同じようには稼げないかもしれない。

そのような不安を抱えていると、夫が黙々と家事をこなしてくれている姿に、感謝とは違う感情が芽生えてきます。この先、我々、どうやって生きてくの? 私が仕事ができないことを、不安に思うことはないの? そうやって、家事は一生懸命やってくれる夫のままで、我々は生存していけるんだろうか。

しかし、夫は夫なりの精いっぱいで家庭を支えている現状、夫に対して更なる貢献を求めるような言葉を、私は見つけられませんでした。少なくとも、彼を傷つけず、彼の気分を害さないような言い方では。

「最悪、死ねば、何とかなる」

その時、ふと頭をよぎったのは死のイメージでした。

「大丈夫、最悪、私が死ねば、何とかなる」

死ねば住宅ローンは団信でチャラになる。生命保険にも入っているし、会社には遺児年金制度もある。最悪、死ねば、大丈夫。

仕事ができないで生きてるくらいなら死ねばいい――。思った瞬間、はっと我に返りました。「駄目だ。私、適応障害云々以前に、相当、追い詰められている」

死ねばいいと思ったのは一瞬。それは「死にたい」でも「死のう」でもなく、生きることと並列の選択肢として、ふと、にらみつけている視界の先に現れて、またふと消えた。希死念慮とも違う。ただ、家族を生かすための戦略の一つとして。

ゾッとしました。そんな選択肢が、生存戦略の一つとして心に浮かんできてしまう今の状況について。私が死ぬことは絶対に「何とかなる」ための方法ではないし、それを思わず想像してしまうような状況は正常じゃない。

それと同時に、気が付きました。今私が抱えている問題の根本は、適応障害になったことじゃない。私が、在宅勤務しか選べない生活の中で、太郎とともに追い詰められていることだと。適応障害はあくまで結果で、いくら薬を投与しても、休養で整えても、この行き詰まり自体を何とかしないことには、ダメだ。

抜け出す方法を考えなければいけない。だけど一体、何をどうすれば良いのだろう。薬でも医者でもないのであれば、私は一体、何を頼ればいいのだろう。

トモ子

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